空白

そこに描き出すしかないのだもの。

人間の虹を空から見るの

あけましておめでとう、というには烏滸がましい、1月の折り返し地点も大きく曲がったところにあって、ここでの挨拶はやっぱり、あけましておめでとう、なのだとおもいます。

年末年始は例年通り実家に帰って楽しかったです。
親友に会って、寝正月して、いとしい後輩に会って、吹奏楽のOB会に参加して、地元就活のイベントに行って、新しくできたショッピングモールでお買い物して。
誕生日兼クリスマス兼お年玉でクリニークで化粧品買ってもらっちゃったー。
でもそのあと見に行ったコートも可愛くて、ああこっちにしとけばよかったかな、とか。
そんな風に、娘としてのわたしをたのしんできました。

最近はいつもどおりに哲学とドイツ語と勉強して、すこしだけ就活もしている。
先週の日曜日行ったセミナーはとても有意義でした。
教授から紹介してもらった某企業の方とのメールや電話は、どんな時間よりも充実して価値のある自己分析の時間になっている。
以下はこのところすこし考えていること。
この形式かるくできあがってしまっているなー、つぶやきの中から、こっちによりわけてくる方法。

【美について】

当たり前なんだけれど、「美しい」には「美」が先立たなければならない。かといって「美」が「美しい」より優位だとか優れているというわけではない。なぜなら「美しい」を持たない美は存在しないからである。
ところで「美」という漢字は神に捧げられた羊(そしてその大きさ)が由来になっている。どこかキリスト教的でおもしろい。一方beautyはラテン語 bellus(美しい)が語源で、bonus(よい)と出自を同じくする。よいものは美しく、美しいものはよい。そう断じるのは善の越権であるけれど、興味深い。
わたしは普遍なんてないとおもっていて、でもある程度普遍っぽいものがないと社会は成り立たないことはわかっていて、その普遍っぽいものを普及させるのが教育であって、じゃあ感性みたいな個別的なものに属する美や魅力をわたしたちはどうやって共通の認識にしていくんだろう。
一方、一部の人にしか感じることのできない美や魅力もある。たとえばグロテスクな絵画。ゴヤとか。それを美しいと呼ぶののには躊躇いがあっても(躊躇うだ けであって、決して美しくないわけではない)魅了されずにはいられない。でもそれはすべての人にとってそうではない。現代アートで顕著かな。
「美しさとはなにか」と訊いたら「バランス」と答えてくれた人がいた。なるほど。バランスがいい、わるい関わらず、そこにバランスが存在すること。日本語に直すと整合性、が一番近い。確かに、どのような分野の芸術であっても整合性は重んじられる。古代ギリシャの建築から、ミニマルミュージックまで。
いつか後輩が言ってくれた、「単位の大きな繰り返しって美しさの条件な気がする。フラクタルに美しさを感じるのは、細かさが全体の大きさを錯覚させるからではないか」ということから、いまも、示唆を受け続けている。

尾崎豊についてというか、音楽についてというか】

わたしが彼の音楽を聴いていたのは中学生のとき。当然のようにリアルタイム世代ではない。その胸がくるしくなるような、絶叫にも似た歌声。こんな風に愛されたいと、無邪気に願っていた気がする。いまならその愛が孕む痛みや現実にも想像が至る。
そう、彼の言葉は少なくともわたしにとって現実ではなく虚構だった。彼の同時期にわたしが聴いていたアーティストは、ブルーハーツ。今やどこか伝説のバン ド。尾崎同様に、数年おきに再ブームがときに激しく、ときに穏やかに巻き起こる。多くのアーティストがその言葉に旋律に影響を受け続けている。
中学生時代のわたしは、どこから見ても優等生だった。友人とその趣味を共有したことはなかったし、共有したいとも思わなかった。彼らはわたしにとって、ご く個人的な、生きられなかった世界を仮託する存在だった。わたしよりさらに幼く、外の世界を持たない弟においてその傾向はより顕著だったと思う。
わたしたちに尾崎豊ブルーハーツを教えてくれたのは、ラジオでもテレビでもなくて、その絶頂の時代をまさに生きた両親だった。難しいことはよくわからな い。ただ確かなのは、よいものは世代を問わず、よいということだ。力を持つ言葉は力を持ち続け、響く旋律は響き続ける。それが選ばれるのは必然だ。
ただひとつ言えるならば、尾崎は転換期の象徴であるのかもしれない。尾崎以前の典型は、ブルーハーツ。尾崎以降の典型は、ミスターチルドレン。剥き出しの感情は、彼を境目にオブラートにくるまれるようになった。しかしわたしたちはそれでもいまなお、感情の揺らぎを告げる音楽に惹かれずにはいられない。
感情を仮託されることは、芸術のひととつの機能なのではないだろうか。聴覚におけるそれ。ジャンルを問わず、わたしたちはその中に生きられなかった世界を見るのだ。

【邂逅と別離について】

究極的な不幸せは死ぬことだけだと思うので、それを裏返せば生きるということが唯一の自己目的的な幸福なんだろうか。でもそれはわたしが生に対してポジティブな人間だからそう考えるのかもしれない。死にそうと死にたいは全然違う。死にそうは死が歩み寄ってきて逃げられるけれど、死にたいは自ら死に近づく。
死への憧憬と生への執着はコインの表と裏。ところで生きてさえいれば政治的介入がない限り、本気で会おうと思えば誰にでも会える。たとえ地球の裏側にいたって。時間や金銭の都合なんて後付けの言い訳に過ぎなくて、それで会いたい人に会えないのは自身の怠慢だ。会えないのではなく会わないのだから。
それでも、死はいつだって唐突に出会いの契機を引き裂く。だから、これからの人生は、会いたいひとには、会いたいと思ったそのとき、会いに行こう、と決めた。会いたいと言ってくれたその瞬間、会いに行こう、と決めたのです。だって、昨日までなら会えたのに、なんてかなしすぎる。
祖母が、もう長くないのだという。1年、持つか持たないか。そしたら、祖母を愛する祖父も、きっと、。私の名前の一文字は祖母の一文字で、わたしの一部はたしかにあなたによって形作られている。もし自分が父と母を相次いで喪うと、なんておそろしくて考えたくない。母の悲しみに寄り添うだけで、きりきりと痛む。
たいせつなものが増えてく。きっとまた持ちきれなくなってぼろぼろ落とす。でも、それでも残るものはほんとうのほんとう。
叶えたいやくそく、叶わないやくそくがふえてく。
いきるということは、まもれるまもれない関係なく、やくそくを契ることなのだとしたら、それはなんて重たいものなのだろう。


幼いうちからほんものに触れなさい。いいものに接しなさい。あのひともあのひともそう言った。いまは自らに言い聞かせるしかない。耳が、目が、感性がすこしずつ鈍くなってく。世界の色彩をとらえること。音楽に耳を澄ますこと。同い年の彼女に、ブラウン管越し、久々に言われた気がした。甘えるなと。
生きることは死ぬことだ。だから殺してはいけない。生かさねばならない。聴くこと。観ること。感じること。わたしが君にあなたに贈れるもの、与えられるものはわたしが持つものだけだ。たとえば言葉。そして言葉。ああ、それしか持たない。だから、だけど、それをあげるよ。

ある日突然現れる登場人物に人生を乱されることがある。そしてそれは訪れと同じく突然に、あるいは次第にフェードアウトする。永遠はそこにはない。いつしか平穏は舞い戻る。ときどき箱の中から引っ張り出して眺める日々はいまでも不思議。この日々もそうなるんだろうか、君にとって、わたしにとって。
悲しみは残されるものの専売特許だ、慰めてくれる人もない。だけれどそれも次第に薄れゆく。所詮色彩を失ったままでは生きてはいけないのだ。人間は案外丈夫にできている。
あなたからもらった、「走りながら考える」、その言葉を胸に、もうしばらく、走り続けてみよう。

高潔であれ!清廉であれ!和して流れず、清く正しく美しく。