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空白

そこに描き出すしかないのだもの。

僕らの時計の中一つだけでいいから

言葉にまつわる掌編4つ。
すこしさぼっていたので長くなってしまって読みづらい。
やっぱりもうすこしこまめにするべきですね…。

【言葉でもって人と語らうことについて】
わたしは自分が人付き合いが下手な方だと思ったことはない(少なくとも大学に入るまではなかった)。新しい人と知り合うのは新しい価値観と出会うことで、わくわくすることだから。人見知りもしないし、なにより話すのが好きだ。
世界のこと、宇宙のこと、自我のこと、本のこと、音楽のこと、スポーツのこと。どんなに話しても話題が枯渇するなんてことはなかった。新しい人との知り合い方もよかったのだ。大抵がわたしのことを知ってくれている人からの紹介だった。わたしはほいほいついていく。楽しくない方がおかしい。

今思えば、ほんとに贅沢で生意気な6年間だった。外向きの。当時知り合った人の多くと、いまも交流がある。そしてきっとこれからも続いていくんだろう。そんな予感がある。風向きが変わったのは大学に入ってからだ。世界も宇宙も活字も音楽も、話題の主役にのぼらない社会があった。
明日の課題について(そんなことよりカントをどう思う?)、教授への愚痴(昨日超高分子素粒子が発見されたね)、あの子超ムカつく(村上春樹の新作読んだ?)、あの人超かっこいい(ビルエヴァンズトリオ超かっこいい)。段々、言えない言葉が増えてゆく。アウトプットされない言葉は消えてゆく。
言葉とはわたし自身だ。希薄になっていく自分と、四方を山に囲まれたキャンパスの閉塞感がぴたりと重なる。今すぐにでも、逃げ出したかった。この頃から、人付き合い苦手なんじゃないかと思い始めた。大学に入ってできた、なんのてらいもなく友人と呼べる人は2人しかいない。それがまた変化するのは、大学3年生のとき。

自分で自分を押し留めていた足枷を、ひとつ外した。深呼吸できた。その頃にはわたしは、浅い呼吸しかできなくなっていた。深く吸って、吐いて、そこにはかつて惚れ込んだ自然に恵まれたうつくしいキャンパスがあった。開き直った。そしたら、不思議なことに、また、話ができるようになったのだ。
元々知り合っていた人のなかに、そういう話をするのがすきな人がいたのも驚いた。素敵だった。わたしはどれだけ怠慢していたんだろう。伝えることを。いま、わたしのfacebookには約180人の人が、「友達」として登録されている。そんなに多くも少なくもなく、わたしの10年らしい人数だ。

人付き合いの仕方は人それぞれだ。だから「それはよくないよ」とか、きちんと関係が築かれる前に口出しされるのはすごく不愉快。それは君の生き方でしょ う。でも、きちんとした関係が築かれてからの助言や忠告はすごく有り難い。すごく言いにくいだろうことを言ってくれるわけだから。「最近太った?」的な。知り合ったばかりの人に言われても「は?」ってなるだけだけど親しい人に言ってもらえると「やっぱり?」ってなれるような。わたしは言ってもらえて嬉しかった。広い世界を見なさいと。いつからそんなに小さくなってしまったのと。確かに傷つきはしたけれど、改められたから。
「コミュ障」ということについては敢えて論じない。だってコミュニケーションは双方向のものだから。うまく話せないのは話し手だけの問題ではなく、聴き手の問題でもある。話し手も聴き手も下手というのは悲劇である。そのことを知っているから、すこしでも聴き上手になりたい、と願わずにはいられない。


【「嫌い」という言葉のこと】
嫌いって言葉は凶暴で、それを個人あるいは集団に用いることに躊躇いを感じないのはこわい。嫌いのうちにもきっとある好きなところを、その一言はすべて塗り潰してしまう。好きじゃない、苦手、合わない。他の表現もきっとたくさんあるはずで。dislikeとdon't like.
(ちなみにネットでよくある「disる」の語源はdislikeではなくdisrespectらしい。嫌悪と蔑視。だからと言って攻撃性が拭われるわけではまったくないのだけれど。)

「悪い」という言葉もだから、そちらに属することになる気がしてあまり使えない。あなたが悪い。わたしは悪くない。本当に?「よくない」は責任回避のずるく美しい言葉だ。絶対的悪などない。衝突を避けてくるむオブラート。
生きる技術としての言葉選び。不器用だからやさしく紡ぐ。真面目だからうつくしく語る。

基本的に人間好きな犬みたいなタイプなんだけれど、何度かどうしても相容れなかったこともあって、わたしは一貫性と無矛盾性を愛しているので、今でもそれらの現象の理由づけを探して合理化を図っている。嫌いは、よくない。嫌いをよくないと思えるひとがすき。たぶん、そういうお話。


【言葉さんのこと】
思考はゆるくおだやかに迂回する。彼も彼も彼も、これは君の文章じゃないよ、とかなしげな顔をするであろう商業用の文章を書く。わたしはいいけれど、言葉たちがかわいそうだな、とおもう。
生きることは妥協であり、大人になることは折り合いをつけるということなのだと、何度自分を騙してきたのだろうか。
雨のように言葉たちが降る。溺死しそうだ。君たちに殺されるなら本望だよ。
言葉の海を素潜りでゆく。目指す表現に出会えたときの喜びをどう語ればいい?そしてその恵みを分かち合える存在を。孤独だけれど、孤独ではない。

話し言葉は幼馴染みだ。軽口を言い合って、喧嘩をしたっていい。いつでも軽やかさをまとっている。書き言葉はもっと何か、崇高で神聖で絶対的な、そう、言うなればわたしの神様。いつだってわたしの一番内側、一番近くで、わたしを守って、わたしの味方になってくれる。

言葉への独占欲(わたしだけのものになってよ)、その完全性への嫉妬と謝罪(不完全なわたしが不甲斐なくて)、ああもう、これは、恋だ。くるしいくらいに、あいしてしまって、いる。


【言葉と感情のこと】
最近言葉と感情のことばかり考えてる。わたしはわりと言葉は感情を仮託するものだと考えていて、渦巻く様々な感情にそれぞれふさわしい言葉を与えていくことはわたしにとってそんなに難しいことじゃない。でもすべてを言葉にしてしまうのは果たしてよいことなのか?できないものも、あるのに?
0か1か、あるいは0か100かに期待を寄せすぎるのはわたしのわるいくせだ。不完全であるがゆえの、完全性への儚い憧れ。すべてを言語化してしまうのではなく、ほんとうに必要な、適切な要素を凝縮した一言を求めている。時には11文字、時には4文字ですべてを言い表せてしまうのだから。
(たとえば、誰かが去るかなしみを胸に抱いたまま溢れる一粒の滴が「歓び」であるように。)

語り得ないことについての、沈黙。そのうつくしい空隙すら語りたがる傲慢さ!
語ってしまった瞬間、世界は生まれると同時に死んでしまうというのに。


言葉への愛情は、そのまま世界への信頼と肯定なのだけれど、「世界は愛していても社会には関心がないでしょう」と言われてあまりに図星ですこし落ち込む。落ち込むけれど必要な指摘であったのでその言葉が与えられた僥倖をよろこぶことにする。
喧嘩をしたい、叱られたいという妙な願望がわたしにはあって、そういうときに出てくる言葉は剥き身で迫ってきてひりひりと痛く、ああ、わたしだけのための言葉だと思えるからだ。
ただそれはほんとうは「諭されたい」という願望だったのかもしれない。
せんせいもよく、わたしを諭した。
わたしは多分一番わたしの凡庸さと不完全さを理解していて(べつにそれで自分が嫌になったりきらいになったりするようなことは全然ないのだけれど)、しかも親によってそれを浸透させられ、その一方で他人には高く評価されるといういびつな環境で暮らしてきた。
友情以外の関係で、対等さというものが圧倒的に欠落しているのだ。
卑下するのでもなく、賞賛するのでもなく、同じ目線で、しっかりと目を見て、話をしてほしかったのだ。ただ、それだけだった。
諭すという言葉は聡いということとおなじ読みを持つ。
諭す言葉の、あまりの聡明さが、今も耳の底に張り付いている。