ミルク色に煙る街を裸足で歩いている
どきどきしながらワーグナーを聴いている。
なぜかうまくパソコンにCDが読み込めなくなってしまった。
音楽なんて本来的には瞬間瞬間の芸術であるのだからして、保存、および繰り返し聴こうなんて発想自体がおこがましいのだ。
コンサートに行きたいなあ。ライブでもいい。生きたものに触れたい。
先月の終わりから会社のわりと大きめのイベントに専従になっていてようやくおわった。
疲弊しきっていて、きょうは午後から起きて、食べて、飲んで、くずみたいな生活をした。
あと録画していたテレビドラマを数本見た。
落ち着きがないので、テレビを見るという行為が向いていないのだけど、録画はそれなりにじぶんの ペースで見られるのですばらしい。冬のボーナスは正しい投資をした。
年始のオリエント急行殺人事件は衣装がうつくしかった。
今クールのドラマでは、沢村一樹、真木よう子とすきな俳優が出演しているもの、あといま暮らしている自治体が舞台になっているものを残している。
そんな節分。
ひとりでなければ乗り越えられることもあるのかもしれない、あいにくいまのわたしは超絶ひとりだ。
疲労、というものはこんなにも毟りとっていくものだったかなあ、なんて思いながら、まあこういうものだった気もする。
2015年になったからといって特段わたしがすごい美人になったわけでも性格がよくなったわけでも、当然能力が伸びたわけでもないし。
どちらかというと手を抜いた日々だったってこと。すこし本気をだしたらこうなっちゃう程度だってこと。
空いた時間を見つけて、「ノルウェイの森」を読み返していた。
いつ読んでも「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちにひそんでいるのだ」っていうのは大きく首肯せざるを得ないんだけど、今回とても響いたのは永沢先輩の「自分に同情するのは下劣な人間のすることだ」というお言葉。
わたしを大切にできるのは究極的にわたしだけであるし、そんな高尚なにんげんでもないけれど、わたしはわたしを憐れみたくはないのだった。
まあそれなりに満たされてはいるはずだ。家族がいて恋人がいて、仕事があって。
そんなこと言いながらもとめてしまうのがわたしの悪癖であり、わたしがわたしであるゆえんである。
わかりますか、わからないでしょう。
恋人に遊園地にいくことを強要したりしてしまうのだ、一緒にいてくれる、すきでいてくれる、ただそれだけでいいなんて思えないの。
自分に余裕がなくなるとそれがいっそう顕著になる。
そして自己嫌悪に走り、自分を傷つけ…たいへん情けないね。
ていねいに生きる。
もう何年も、それを目標として掲げている。
叶えられなければ、変える必要はないのだとおもっている。
目標とは、叶えるために掲げるものだから、叶うまで掲げ続けることは、なにもおかしくなどない。
ー今週のお題「今年の抱負」