空白

そこに描き出すしかないのだもの。

たとえばゆるい幸せがだらっと続いたとする

涙がとてもちかいところでつっかえているかんじがする。

かなしいことがあったわけではない。

絶望するのはいつだって簡単だ。

 

先週ちょっとしたミスを連発して、信頼関係でやっていかなければいけない職場で、信頼と甘えを履き違えてしまってべこべことへこむ。

地面にめり込みそうだ。

そこをなんとか持ちこたえて、昨日は大学と高校の友達に会ってきた。

あんまりものを考えない。それがいいのかわるいのか、考える間もなくいい加減になる。

働いていたってわたしはそこまで真摯になにかに向き合っているわけではなく、でもそれなりに神経は使っているわけで(1年間で、思ったことをそのまま口に出さなくなったと言われた、成長だ)ただ、人の話を聴く仕事なので、人といてぼんやりしているということがあまり許されない。

さみしがりやなので、人とはいたい。

でも、すべてをゆるされたい、という、傲慢。

書くことはありがたいことにいまも何の苦もない行為なので、聴けさえすれば、わたしの仕事は5割終わる。

残りの3割で写真を撮り、さらに残りの2割で原稿を書く。割合でいうとそんなかんじ。

デジタル一眼のEOS7Dは1年間連れ添ったけれど、笑ってごまかして実は使いこなせていないので、もっと仲良くなりたい。

そんなことは、まあ、いいや。

 

足りないものについて考える。

 

恋人と、ちょっとだけ遠距離。

去年半年くらい、半同棲だったけれど、今会えるのは多くて月に2回くらい。

しかも向こうはもうしばらく学生。

それぞれのフィールドで戦うときなのだとわかってはいる。

それでも、さみしさ、こぼれる。

今度は一緒に水族館に、行きたいな。

 

バスクラリネット

ずっとずっと渇望していて、でももう、取り戻しても、思ったようには奏でられないんじゃないか、うつくしい思い出で残している方がしあわせなんじゃないかって、いろいろ考える。

考えたって仕方ないから、コンサート、ライブ、音の渦、溺れたいな、とおもう。

同時に、木低の子に会いたくて仕方ない。

わたしのたいせつなひとたち。

いまのわたしの血肉となっている時間。

 

紙に文字を書くという行為。

読む方は、こっちに来てから、だいじょうぶ。足りてる。

ただ、こうやって打ち込むように、書く、ということ。

一昨年までは日記を書いていたけれど、去年の途中でやめちゃった。

仕事でも書いて、SNSでも書いて。

それでも足りないのかって。足りないの、病気だから。

とりあえず書くという行為が、とても、すきなのだ。

でも、相手が必要だから、むずかしい。

手紙をすきな友達を何人か、思い浮かべる。

住所、訊ねてみようかな。

 

心地よい風が吹く、季節だ。

できれば泣かずに、過ごしたい。