空白

そこに描き出すしかないのだもの。

今日も明日も愛と感謝に生きよう

【20120712 公的な幸福、私的な幸福】
個人の幸福と公共の福祉としての幸福のダブルスタンダードで生きているので、愛とかいうもので個人の幸福を手に入れられても、もう一方が満たされないから、あんまりしあわせそうに見えないのかもしれないけれど、ちゃんとしあわせなんだよ。ただ、長い長い留保つきの幸福であるだけで。
わたしの幸福は、わたしのたいせつな人たちの幸福で、だからきっと、わたしがしあわせになることで、自分もしあわせになれるのだと言った、彼の言葉を、わたしはいまも忠実にまもっているのだとおもう。


【20120719 教えること、学ぶこと】
「答えのない世界が楽しい」ひとばかりじゃないし、塾に来る生徒たちはなんらかの「答え」を求めているのだとおもう。わたしみたいに「答えのない」世界ばかりが楽しい人ばかりではない。
「学ぶ」という、その営みの崇高さを、言葉を尽くして語ることはいくらでもできるけれど、本人に切迫を伴って伝わらなければ何の意味もない。だから卑近な言葉で語る。いつかわかってくれる日が来る、そうかもしれない、でもそれは今じゃない。学力が求められているのは、今だ。
本来なら、学校で学ぶことのできたはずのそれが、不十分な授業によって妨げられさえもする。授業とは、業を授けると書くにも関わらず!幸か不幸か、わたしはそれを授けてもらえる出会いに恵まれすぎていた。
「教育者」の観点ではなく、「学習者」の観点に立つから、教育の問題の、様々なことがひっかかるんだろうなあ。解答は「書かされる」ものではなく、「書ける」ものであってほしい。
学力について考えたり語ったりするとき、わたし自身が「学ぶ意義」そのものを問うてしまうから、そもそもの問題設定から噛み合わないのかもしれない。


【20120720 世界の軸、再び】
複数のコミュニティに所属することを覚えたのは中学生のとき。最初は純粋な、あれもしたいこれもしたいという好奇心からのスタートだった。じぶんに与えられた時間を切り貼りして、パズルみたいに日々をやりくりするのはとてもたのしかった。手帳の使い方を覚えた時期とほぼ一致する。
それが次第に、消極的理由に変化する。家族という一番基本になるべき世界の軸が破綻するというか、ぶれたことがあった。逃げ場としての、コミュニティを確保するようになった。
家庭で身動きできなくなって、楽器庫で呼吸できなくなって、そうして逃げ込んだのが生徒会室だったのかもしれない。
きっかけはどうであれ、増やした世界の軸はすべて自らで選びとったもので、あいしてきたし、あいしている、どれも。世界の軸、均衡、バランス、どんな言葉で表現してもいいけれど、それに対してわたしは過剰に執着し、その崩落を恐れている。だから世界はよきものとしてつくられたと言ってくれるライプニッツに救われずにはいられない。
大学でよくわからないまま飛び込んだ最初のコミュニティが、あまりに閉鎖的なもので、だから馴染めなかったし、とてもこわかったのだとおもう。この世界が壊れてしまったら(実際そうなったのだけど)、わたしはじぶんに内在する空虚に対峙しなければならなくなる。

わたしはからっぽだ。

ずっとそうおもってきたし、おもっている。だからこそ吸い込めるものも、そうでなければ吐き出せないものもそれなりにあるけれど、なんにも属さない、参与しないむきだしの「わたし」で生きることは、裸で渋谷を歩くような心許なさと羞恥があって、「ありのまま」という言葉の傲慢さに耐えられない。
これからもわたしは、きっと、いろんな世界に飛び込んで、わたしの中の軸を増やしてゆく。そのすべてを平等にあいすることはできなくとも、最初にあいした世界を、忘れてしまうこと、手放すことはもうないだろう。すてきな世界に出会える、夏だといい。


【20120722 呪縛、あるいは醜い執着】
わたしの人生はどう捻じ曲がってもわたしの人生なので、それを続けるのも止めてしまうのもわたしの自由なのだけど、おわりについて考えたとき、引きとどめてくれる存在がいるということはきっととてもすてきなことであると同時に、重たいことだ。
たとえば彼からの本来存在しない期待が、わたしを成長させると同時にわたしを苦しめる。それに適わないわたしであってはいけない。それに適うわたしでいたい。彼は そんなことわたしに求めていないのはわかっているのに。彼はわたしらしくあることを求めているのに。じゃあわたしらしさってなんなの。
他人の望む姿を演じるほうがよっぽど簡単だ。そしてなるべきモデル、成長につながるよりよいモデルを提示してくれる出逢いは確かに僥倖と呼べるのだろう。容易にぐらつく自己を担保してくれる点で。「貴女は、貴女です」ああ、そう言ってくれるだけで!
中高のやわらかな呪縛にぐるぐるとくるまる。あんまりそこが、居心地がよかったものだから、困ってしまうんだよ。ぜいたくだね。
「じぶんをたいせつなもののカテゴリにはいつまで経ってもいれられない」というのはまったくそのとおりで、でもその他のたいせつなものをたいせつにするためにはまずじぶんが存在しなくちゃいけないのだなって、コペルニクス的にぐるぐると思考を転回させる。

他者からの承認によって(しか)自己は存在し(得)ない。

ゆがんだかたちで承認が行われれば、ゆがんだかたちでの存在が立ち現れてしまう。しかし主観を一切交えず、なんらかを認識したり承認したりすることはできない。わたしたちにできるのは、できうる限り、透徹した、まっすぐな視線で、他者を、世界を、承認しようと意識することだけ。
紺色の闇の中、自己の自己矛盾的自己同一に対峙する。


【20120725 語れ、踊れ、高速で】
来年から同じ土地で同じ職種に就くひとたちとお知り合いになり、盃を交わす。
暗褐色の、よく冷えたタールのような液体をするすると流し込む。一息、二息で、軽い缶は空になる。維持したつもりで、どこかねむっていた理性が、ぼんやりと目覚める。明日の朝、またきちんと生き直せるように。
この三年間、四年間で、失ってしまったものを嘆くのではなくて。共に戦える仲間が、こうして増えるというのは、すばらしいことだ。眠れなくてもつらくても くるしくても、それでも夢だったのでしょう。そうして言葉をかけてくれる、おなじ世界のひとがいれば、何度でも立ち上がれる気がするの。
書き言葉を、伝えることを、いいえ、伝わるという奇蹟を、わたしは信じているんだよ。

早口を指摘されてから、意識しているのだけど、このリズム、このテンポで言葉を刻む世界にいきていて、わたしはそこが居心地がとてもよくて、そして凡庸なわたしは、このリズム、このテンポを、その渦にいることの中で、身につけていったのだよなあ。そもそもの素養もあったのかもしれないけれど。
楽だなあと思ってしまって、楽なほうにゆくのは簡単で、それだけじゃいけないのだけど、脳をスポンジのようにするこの感じ、競うように、切るか切られるかの切迫のなかで言葉を競う感じ、思考が深化し、ぐっと世界が鮮明になる感じ、あんまり気持ちがよいものだから。


【20120727 なぜ、読むの?】
わたしは物心ついたときから本の虫で、読みたいから読んでいて、そこにどんな発見や喜びがあるのか、と問われて、うまく答えを見つけることができなかった。小説を読むことは、ひどく自己充足的で自己目的的な行為だ。その結果として得られるもの、生まれるものはあまりないというか、結果を問題としてはいけないのだとおもう。
読みたいから読む。呼吸をするように読む。語彙が増えたり、感受性が培われたり、そういうことは確かにあるかもしれない。でも、わたしにとってはむしろ、眠るとか食べるとかの、生きるために必要な一時的な欲求に近いものとして、読むという行為がある気がしてならない。
だからわたしは、小説を読まないということがわからないし、小説を読まない人にもわたしのことをわかれないはずだ。純粋な欲求として、そこにある。喩えはわるいかもしれないけれど、アルコール中毒患者が、お酒を求めるみたいに。目的とか意味とか価値とかを求めるひとは、たぶん次第に小説から離れてゆく。それがよいことかわるいことか、ただしいかただしくないかなんてことは、だれにも決められない。


【20120730 こんな姿勢で、生きてます】
忙しい、という言葉が嫌いだ。心を亡くすと書くから。亡くした心はどうなってしまうの、忘れてしまうの。誰しもが忙しさなんてそれなりに抱えている。糸井重里の、「多忙は怠惰の隠れ蓑」という言葉は、だから言い得て妙だとおもう。
どうしてこんなに忙しいのかとおもってしまうことはある。そんなときは、忙しいと口に出す前に、いつかどこかでさぼってこなかったか振り返ってみる。忙しさに対するキャパ、できる仕事量というのは、努力次第で拡大可能なもののはずだから。
疲労や悩み事と違って、忙しさは肩代わりすることができない場合が殆どだ。言われた方も、じゃあどうしてあげたらいいの、ってなってしまう。それでもどうしても口をついて出てきてしまいそうなときは、深呼吸する。一番よくないのは、無意識に口癖になってしまうことだ。
「忙しい」と口に出す前に「おっぱい」と言うのはどうだろう。おっぱい…いい響きだ。まあるいものだ。力の抜ける音だ。

「泣く間があったら手を動かせ」と怒られたことがある。
非生産的な自己に対する自己評価をおそろしく低く設定してしまうので、可能なかぎり生産的でありつづける努力をする。
やるかやらないかという選択肢に出会ったとき、すきとすきじゃないとどうでもいいと、やるべきこととやりたいこととどうでもいいことの箱にぽんぽん入れているので、どこにも入らないもの、きらい、という感情にであったときとても戸惑う。
それでもキャパシティにはどうしても限界があって、すごくかなしい。しくじった取捨選択。誤った優先順位。ちいさなてのひら。ぽろぽろ落としてきたもの。壊してしまったもの。想って、すこし、泣く。