空白

そこに描き出すしかないのだもの。

人はいつか消える一瞬の光

今日は長め、メンタルフィジカルともに弱め

一番会いたくないタイミングで

一番会いたくない人と会ってしまうということは

あるものなんだなぁ、と痛感した

明け方、喘息の発作がでて

なんとか治まって少しだけ眠って

駅に着いたときには急げば間に合わなくもなかったんだけど

ここで急いだらせっかく治めたのに確実に再発するなーと思って

ゆっくり自転車を漕いでゆっくりゆっくり時間をかけて階段を上って

そしたら始業時間に間に合わなくなってしまって

職員室に行ったら学年団にせんせいと和則しかいなくて

和則のところには他の生徒が行ってしまっていたから

せんせいのところに行くしかなくて

心配されるのは誰であっても、苦手だ

「かわいそうに」

と言われてしまって、それがどういう趣旨かはとらえられなかったけれど

恐らく同情、なのだろう

同情も優しさのかたちのひとつとしてありだとは思う

でも自分がその対象になると、ね

論文の話もされて

「素人受けはしないから」

うーん、受けを狙ったわけじゃないから当たり前だ

語弊を恐れずに言えば彼はとても強い

強いということは鈍感だということ

そしてその強さの前にあたしはいつも立ち尽くす

「天災は忘れた頃にやってくる」というけれど、あたしの場合の天災はまさしく喘息で

初めてのことじゃないし

慣れてるし

去年なんか一時期本当にひどかったし

それでもやっぱり、しんどくて

泣きそうになりながら、教室に行った

(しんどいのはからだよりもっとこころのほう

どうしてこうもよわいんだろう)

2時間目が保健のプレゼンにあたっていて、原稿もスライドも、あたしが作っていたから抜けられなくって

そのことに今さら何をどうこう、言う気はないけれど

とりあえず一刻も早く終わらせたくて

やっぱり泣きそうになりながら発表を終わらせた

そうとうキてたみたいで、友達にも保健室行ったほうがいいと切実に訴えられて、3時間目は保健室

体育、どうせ見学もできなかった

座っていられないんだ

これは身体の方の問題

しんどい、しんどくないに関わらず

喘息というのは横になるのも

背もたれなしで椅子に座るのも

呼吸が苦しいものなのです

あたしが長年のおつきあいから発見した一番楽な姿勢は椅子に背もたれとの間にクッションを挟んで座って、机に突っ伏した状態

こうして、呼吸を数える

吸って、吐いて

当たり前にできるはずの動作を、ひとつひとつ手順を思い出しながら

熱を測ってみると37.6度

平熱が36.8度~37.0度の間なので妥当な線

一時間ベッドで休ませてもらって

ちょっとうつらうつらしたりもして

脈と呼吸が整っていく感じ

生きるということはすごいことなんだなぁ、と体感

それなりに回復して、4時間目

移動の途中、せんせいとすれ違ってしまって、思わず視線を逸らしてしまった、そして通り過ぎる

何が、かはわからない、けれど何か後ろめたくて

午後以降はそれなり

そして現在

一度ずれてしまったパズルのピースはなかなか上手くはまらない

油断は許さない状況が続いています

これは経験則

もうなんでも普通にできそうな気がしてる

でもここであたしの思う普通をしたら結局今日の明け方に逆戻り

しんどいとか、つかれたとか教えてくれるのは、いつだって頭より身体の方だ

リミッターが壊れている

でもそんなものに従っていたらあたしのしたいことの3分の2もこなせない

小さい頃は毎日のように発作が起きていて

薬が手放せなくて、吸入のために病院にも通って

そういう時のことを思い出すから、余計にいやだ

他にできることがないからベッドの上で本を読んでばかりいた

時には世界について考えてみたりもした

親は手厚く看護をするわけでもなく放置するわけでもなく適度な対処をとっていてくれたような記憶が薄ぼんやり

喘ぐように息をする、というのは文字通り

聞いている側も気持ちのいいものじゃない

でも普段なら薬でコントロールできるし、他人にうつるわけでもない

だから軽い発作程度なら日常生活に支障はない

ただ今朝みたいに突然聞きなれてしまった喘鳴が自分の内側から響いてくるとああまたか、とげんなりする

あたしは一生この子とお付き合いするしかないのだろう

自分の中で嵐が渦巻くのだ

比喩ではなくて、実際にそんな音がする

みんなどこか故障を抱えて生きている

それは理解してるけれど

理解することと受け止めることは違う

うんざりしちゃうな