浅い眠りに押し潰されそうな夜もある
言葉が、損なわれている。くるしい。
美しいものを見て、美しいと感じて、それを言語化したいだとか。
たのしい、おもしろい、うれしい、しあわせ、それを共有したい、それは私が自らのうちに持つ、本質的な欲求だと思いながら、生きてきた。
一切において、伝えたい、分かち合いたい、というモチベーションに繋げられない。
かろうじて、情動はある。おおきなものではないけれど。
でもどんなポジティブな情動よりも、いま、この瞬間の逃れられないくるしさ、しんどさが上回る。
書くことを職業にさせてもらったのは僥倖であったとおもっている、いまも。
なのに、こんなにも書くことに倦んでしまっている、そしてその程度があまりに重く、期間が長く、途方に暮れる。
4月17日に父親が亡くなった。
親が亡くなるという経験は、人生の中で多くとも2回しかない。
ここ5年で3人目の身内の死だった。
こういう言い方はよくないのはわかっているが、自死ではなくてよかった、とおもう。
父のことはあまり好きではなくて、あまり大切にできなくて、悔いは確かにある。
本当に急に、心臓が働くことをやめてしまったのだ。
同じく父を疎んでいたはずの母がとても落ち込んでいるのが、かなしい。
大切にしなければいけないものを、大切にできていなかったと、大切にされていたのだと、失ってから気づく経験が、短期間のうちに起こりすぎて、心が疲弊仕切っているのだとおもう。
祖父母のうち唯一生きている父親の母親、私の祖母も、命の灯火が揺らいでいる。順番だとはわかっているけれど、こうも相次ぐとどうしようもない。
愛犬だって、もう長くはないのが分かっている。みんないなくなる。
わたしはわたしのするべきことをしなければならない。分かっている、分かっているのだけど、動けない。
くるしい。たすけて。それが言えない。
しっかりしていなくてはいけない、らしい。
職場の後輩の女の子が妊娠して流産して異動を希望していたり、上司から求められるものが高かったり、そういうのに耐えられる精神状態では実際、ないのだ。
先週は一日もきちんと働けなかった挙句、金曜日はぜんぜん起き上がれなくて、いざ職場に着いてからも、突然涙が溢れて、ああいっぱいいっぱいなのだなと、ようやく認める。
うまく頭がまわらない。元気な時なら、あれをしてこれをして、って、前へ前へと動けるのに、ああ、あれもしなくちゃ、これもしなくちゃ、ばかりで、進めない。進めないことを許してほしい。ゆるされない。なんでわたしばっかり。
でも大変なのはみんな一緒だ。泣き言を言って、甘えを見せて、ゆるしてもらえる時期は過ぎてしまったのだろう。
ああ、どうしようもない。くるしい。
さあ時は来た 繋いだ手を離すんだよ
ラ・ラ・ランドを観て来ました。
衣装がきれいで、音楽が魅力的で、鑑賞後には多幸感と絶望感が共存するふしぎな作品。ネタバレになってしまうけれど、やさしくない逃げ恥のエンドロールみたいなかんじ。でもこっちのほうがきっとリアル。
女でよかったな。
久しぶりの平日のお休みで、coenでカーキ色のスプリングコートを衝動買い。
店員のおねえさんがとてもかわいくて、閉店間際に飛び込んだにも関わらずいろいろなお話をして、「楽しかったです」って言ってくれて、かわいすぎかよ〜。
さいきんバンプのorbital periodをよく聴く。たいへんな時を支えてくれた音楽は、おなじ力をいつになっても持つ。すごい。
しんどいおしごとは、しんどい、しんどい言いながらなんとか終わった。上司にも褒めてもらえたけれど、とにかく先輩にお世話になって、神かな!?というかんじだ。
15年後にそうなれていればいい、がんばろう、という気持ちにひさしぶりになれたので、そういった意味ではとてもいい経験だった。もうしばらくはしたくないが。
後輩も、それなりにちゃんとやれている気持ち。すくなくとも、わたしは。
「(しごとを)やめるなよ」と声をかけてもらえるのはうれしいが、一人の充足がはかどりすぎているのはよくないな。いやいいのか。
おもっているよりお金がないというのは理解しながら、頑張ったご褒美!ってすぐしちゃう。ことしはいいか。じぶんのお金、としてつかえるうち。
「哲学は知的インフラ」という言説に触れて、とても腑に落ちた。
先月、ゼミの恩師の退官記念パーティーがあって、しみじみと感じ入る。多様性を受け入れること。日常はそれがなくても回るのだけれど、そこで一旦立ち止まること、概念について考えることはきっと必要な時間なのだとおもう。
世界の見通しをよくするのだ。
空が青くて、風がさわやかで、いい季節だ。
かわいたかぜ ゆらいだまち
勝手によわっている。
来月あたまが締め切りの大きめのおしごとを担当させてもらっていて、たぶんこの年次でそれを託してもらえるというのは評価してもらっているということで、できないことは言われないとおもうんだけど、ざんねんなことにそのテーマになんの興味も愛着もなく、おそらくそれもあって、全然うまくすすめられていない。進捗だめですってやつです。
気持ちばかりあせる。やばい。2月は28日にしかないのだ。
そのお仕事のことをかんがえると吐きそうになる。
でもほかの並行してすすめている仕事も全然楽しめない。そっちを楽しめない原因は上司にある。わたしのしたいワークではなく、彼の求めるワークをなぜわたしが、わたしの名前でしなければいけないんだろう。
それは3月には変わるはずだし、吐きそうな仕事も新しい上司が見てくれるはずなのだけど。とにかくはやく終わらせたい。
3月には後輩ができる。責任が伴う。自分自身がうまくできないことをチュートリアルしないといけない。感情が見えないからあんまり得意じゃない後輩。
言葉と表情で意思表示してくれないととてもこわい。知らずに傷つけてしまうし、傷ついてしまうよ。
その責任の重さに耐えられるんだろうか。おもたい職場だってこと理解しているんだろうか。いちばん下って、気楽だったなあ。雑多なことをやる人間は必要で、質より量の世界というのはらくちんだ。
職場の先輩たちはほんとにやさしい。ぐすぐす言っててもはいはいって聞いてくれるし、じぶんの方がよほど大変で、わたしなんかのこと構ってたくなんていないだろうに相談すればちゃんと適切にアドバイスしてくれる。間に合うよ、大丈夫だよって言ってくれる。
きょうは朝起きた時からだめだこれってかんじで(土日あまり休めなかった、じぶんで選んでしていることだけれど)、午前中の訪問先がとてもさむくて、偏頭痛もひどくて、全然体温が取り戻せなくて、職場でコート着てたら何もないんだったらはやく帰りなさい、体調戻してからぜんぶ考えなさいって言ってくれて、かなり早い時間に帰ってきてしまった。感謝しかない。
先週は締め切りぎりぎりまで事実関係の確認が取れなくてどうしようどうしようってなってたら確認先を探す作業を一緒にしてくれたり、助けられてばかりいる。
足を引っ張ることしかできない。ちゃんとしたいのに。ちゃんとできないわたしはいらないのに。
一日で勝負がつくタイプのお仕事がけっこう好きで、一日ばたばたしてたら気づいたら終わっているような、そんな毎日のほうがいい。
そういう意味ではいまの担当はあまり得意ではなくて、やるべきことはあるけれど、やりたいことではないし、どうしてもきょうでなければいけないわけじゃない。でもみしみしと迫り来る。そんな仕事ばかりしているとすこしずつ気持ちが塞いでゆく。
そうなってくると、プライベートな方の、傷ついているのだという自覚も出てきてしまう。
なんで、こんなにしんどいのに、つらいのに、ひとりなんだろうって。この先に何があるんだろうって。
会いたいのは君なんだ。ずっと一緒にいるんだっておもってしまっていたんだよ。
なにも考えずに笑いあえるひとがいるということだけで、きっとかなり、救われるのに。反対の衝動ばかりだ。
何も善いとは思へない 余り憤慨もしない
2017年は穏やかに過ごしたい。
2016年は散々でした!
上司からのハラスメントに始まり、異動。引っ越し、熊本出張、選挙、家族の失踪・借金・帰還、そして恋人との別れ。
どのようなことからも、学ぶべきことはあるはずだし、いずれも結果はどうであれ、そこまで自分を責める必要はないと思っているけれど、真面目に頑張っている割には報われなさすぎて逆にすごい。
時折、人から指摘されることではあるけれど、自分の理解や許容の範囲を外れた物事に対しては、距離を置いて捉える事しかできない。終わって初めて、ああ、つらかったとか、大変だったとか、情動が追いついてくる感じ。自分が状況のただ中にいるときは、ものごとをきちんと考える余裕がないだけだとおもうんだけれど。
まいとし、ていねいに生きるということを年始に掲げることが多いのだけど、昨年はなんというかそれどころではない状況で、「日々を生き抜く」というのをモットーにした結果、10月ごろまでまったく自分や自分の周囲を大切にできず、それが原因となって、恋人から別れを切り出されるにいたってしまったわけだけれど、今年は、ちゃんと慮るべきものを慮り、時々本を読み、言葉を綴り、生きていこう。
すり減っているな〜という実感は痛いほどあるので、穏やかに過ごしながら、いろいろなものを取り戻したい。
26歳という年齢の生々しさには驚かされるけれど、あまり恐れすぎることなく。美しく年を重ねられるといい。
穏やかに、注意深く、そして、丁寧に。
よい1年になりますように。
◎月に1回は更新する。
◎穏やかに暮らす。自分を大切にする。ほどほどに痩せる。
◎積極的に、本を読む、コンサートに行く、映画を観る、写真を撮る、短歌を作る。
◎バスクラを買うためのお金を貯める!
ささやかな喜びをつぶれるほど抱きしめて
すり減っている。
約3年ぶりに、弟が家出してしまった。やっとここまで来たのに。
家に帰らなくなって、3日目。原因はお金の管理のできなさ。
くやしいし、情けないし。
彼の人生は彼にしか操れないのだ。
逃げたからといって、どうなるものでもない。
対峙することのみが正しいとは思わないけれど、向き合うことでしか解決できないたぐいのこともある。
かなしいなあ。元気に、帰ってきて、働いてくれたら、それでいいのだけど。
福山の上司との関係は結局、どこにも行けないところに、行ってしまった。彼が、勝手に。
そこにわたしの感情は、意志は、介在せず、できず、残ったのは、強い徒労感だけだった。
5月に、岡山に返された。それを機に、恋人といっしょに、暮らし始めた。
5月、熊本出張、6月、参院選、7月、高校総体に伴う行啓同行。
期待されているといえば言葉はいいが、扱いが雑だなあ、とおもう。いいように使われている。
できない、と思われたら、託されないから。ポジティブにとらえるしかない。
ただ、ずっと支えてくれていたデスクと、年次の近い先輩がいなくなってしまう。
デスクはほんとうに有能な方で、たった4ヵ月しかご一緒できなかったことがとてもかなしい。
有能であるがゆえの昇進に伴う異動であると理解してはいても、次にくる人が一時一緒に働いていたことがあって、おおもう…ってかんじのひとなので、どうしようもない。
彼のかわりは誰にも出来ない。
年次の近い先輩の補充がされなかったので、これまで彼が持っていた仕事はほぼ全部降ってくるらしい。
肩の力を抜きながら、ほどほどに、頑張れたらいい。それがいちばん、むずかしい。
恋人には、どうしようもないくらいに甘やかされている。
愛されて、いるのだとおもう。
もうすぐ、4年。彼の穏やかさに救われる部分は、とても大きい。
さきのこと、を考えれば胸がきゅう、っとなってしまうけれど。
行き止まりにぶつからず、細い道でも、通り抜けられる道が、在り続ければいいとおもう。
だめだな〜、心が元気がないから、言葉がしんでいる。
響くようなメーデー
およそ半年。なんてこと。半年だって。
綴らずして生きていくことなどできないような気がしていたのに、そんなことはなくて。なんて酷薄な生き物なのだろう。
言葉として、文字として、残してゆく、記録してゆくことの重みを、忘れてしまったわけではないのだけれど、そのゆとりがなかったとしか。しかし、ゆとりはつくるものなのだともおもうし。
人は忘れてしまう。だからこそ、留めておかねばならないとわかっていたはずなのに。
忘れることを、どこかで期待していた面も、あるのかもしれない。何も、どれも、忘れられずにいる。
それなりに、傷ついていた、いや、いるのだろう。ここさいきん、ずっと、どこかがかなしい。
こういうことは時系列で書くのがたいせつだとおもっている。
整理するために。
昨年9月、上司が替わった。11月、12月と時節柄いろいろと積み重なって、できることをできるなりにしようと頑張って、でもできないことも当然あって、入社して初めての訂正なんかも出してしまって落ち込んで、そういったことをその上司に相談したりしていたうち、なんだか少し変な風に好意を持たれてしまった。
上司、50代妻子持ち、感情の起伏が非常に激しいひとである。
12月、休刊日にお寿司を食べにいこうと誘われ、お酒を飲んで、それなりにたのしく過ごす。
誕生日に、ティファニーのネックレスをいただく。ちょっと理解の範疇を越える、が、amazonで通販したものを箱ごと渡されてしまったような避けられない状況だったので、モノには罪はない、の精神で乗り切る。
クリスマスのころにはワインをもらう。
大晦日、おそばを食べて、神社に行く。
年明け1月、年末いろいろなものをもらいすぎたので、あくまで上司と部下の関係なのだとコーヒーと焼き菓子をお年賀としてお渡しする。
ポエムなメールが届く。酔って「じゅびりーがかわいく思えて」的なことを言われ、必死で「福山にも娘ができたと思ってください」とかてきとうなことを言う。
香川にうどんを食べにいこうと誘われ、さすがに、あ、これあかんやつ、と思い、支社内の年齢の近い先輩たちに相談する。
社内に知れ渡る。
お付き合いもしていないのにお別れのようなメールが届く。
なぜか外野の方が盛り上がり、対応を間違えたんじゃないかとすこし落ち込む。
2月。なおもややポエムなメールは続く。
このころから諦観の境地に入ると同時に「感情とは何か」ということを考える。
個別的な、あまりに個別的なものを、正悪の観点から把捉し、断じることはできない。
「感情はままならない」というところにすべてを帰着させようとする。
そして2月下旬、「じゅびりーに言いよる上司はくそやろう」的な内容の怪文書が一部で出回る。
うつくしくない感情を向けられて弱っていたら、恐らく小学校以来ぶりにインフルエンザになりました。
火曜の出勤中に発症し、水曜はスクラップになり、金曜に熱が引いた。
おとなになって体調くずすとほんとにきつい。働き始めてこんなにがっつり風邪ひいたの初めてだけど、すべては上述のトラブルが根源な気がしている。
休んでいるときに限ってほんものの大きい事件があったり、小学校の校庭で拳銃の銃弾のようなものが見つかったりと、申し訳なさすぎるのだけど、ちょっとだれか福山のひとお祓いにいったほうがいい。
ちなみにわたしこっちに来てからだいたい年1回ペースでこういう発生があるけれど、毎回出勤していないときなので引きがいい。あるいは日ごろの行いがいい。
怪文書の件は、知らずに生きていくことも出来たのに、そういうものが存在することを上司自らが教えてくださるのでぼくはわたしは。あなたの胸にとどめていてくれたら、わたしは墨をのんだような気持ちにならずに済んだのに。
それなりにおおきい問題になっているはずなのに、会社からすくなくともわたし側への接触はなくて、ああ、やっぱり結局だれも守ってくれないんだな、という現実。
すべてを正直に話せていた先輩との信頼関係も、その上司が行ったわたしへの不要な配慮に満ちた不当な配置換えで揺らいでいる。ほんとに、もう。なにもうまくゆかない。
さいわいなるかな、この土日までお休みなので、できうるかぎり外界との接触を断って、なんとかすこしずつ立て直している。
震災から5年、をやらないといけないのだけど、取材不足の感は否めないのだけど、復帰したらなんとかしないといけないな。
傷ついてばかりはいられない。
わたしが真に傷つけられたり、損なわれたりするとしたら、面と向かってわたしの尊厳を踏みにじられたときか、わたしの存在によってだれかのいのちが失われるときだとおもっている。それ以外のことによって、背負うべきでない十字架を持つことはない。
そう信じてやりたい。
だれに話したらいいか分からなくなって、そのあたりも迷走の原因ではあったのだけど、なにがあってもわたしの味方であってくれるひとたち、というのが(すくなくとも社外には)いることは確認できたので、そのひとたちのためにも、前を向くのだ。
あすは、部屋を片付けよう。新しい日々はつづく。
短歌をまた、始めたいな、とおもっている。
踊るしかないや夜明けまで
秋などという美しい季節だ。
きょうはスーパームーンとかで、なんとなくゆるやかに身体が重たいのはおそらくそのせい。恋人はまったく分からない、というけれど、月の満ち欠けと身体の調子が連携しているのはきっと女性なら誰しもすこしは経験したことがあるとおもう。
さて、読書の秋ということで(季節関係なく読んでいるほうではあるけれど)もうかれこれ8年使っているオンラインの読書記録を振り返ってみたらとてもたのしかった。
そこに来てこの話題だったので乗っかってみる。
ずっと短編が苦手だと言っているのでいい加減読むのをやめたらいいね…でもすきな作家は全制覇したいタイプなので律儀に手に取っているのであった。
別のところでも書いたけれど、わたしは本の内容から何かを得ようというタイプではないので、自分の好みの言葉の連なり、ストラクチャを自分のあたまの中の引き出しに補充するために読んでいる。
しばらく読んでいないとほんとうにかつえるのだから困る。
だから詩人、例えば茨木のり子(『倚りからず』)、谷川俊太郎(『二十億光年の孤独』)なんていうのも好んで読む。
敬愛する江國香織(『ホリー・ガーデン』『神様のボート』『きらきらひかる』)やよしもとばなな(『キッチン』)あるいは恩田陸(『麦の海に沈む果実』など理瀬シリーズ、『蒲公英草紙』など常野物語シリーズ)、はたまた村上春樹(『ノルウェイの森』『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』『海辺のカフカ』)なんてそこから何を学べというのだろう、と思わないでもない。
それでもそこに宿る息づかいが、言葉が、わたしの血肉となっているのだ。
そういった中にあって金城一紀(『GO』)、パウロ・コエーリョ(『ベロニカは死ぬことにした』)に関しては、掛け値なしに、影響を受けた、と言えるかもしれない。思春期ただ中に読んだのもよかった。生まれながらに背負うもの、それはきっと彼や彼女だけのものではなく、普遍的な枷であって、それを受け入れ、乗りこえる過程から、陳腐な言葉だけれど、勇気をもらった。
最近の話だと羽海野チカ(『3月のライオン』)の新作は圧巻だった。なぜこれが青年誌に掲載されているかがよく分かる。『ハチミツとクローバー』にしてもそうだけれど、生きるということを描く物語は凄絶で、そして美しい。だれかの生き方を飲み込む覚悟はなかなかにくるしい。それだけの覚悟をもって読まねばならない本や漫画に出会えることは、きっと生きる喜びでもあると思う。
働き始めてからは特に、読みあさる、ということは出来ていないのだけれど、読んできたもの以上のものは書けない、という信条は変わらない。
大切なのはおそらく、自分で自分を律し続けることだ(それが何より難しい)。
幸いにも書くことを日常とする仕事につけている。なにがうれしい、って、わたしの言葉のファンだ、と言ってもらうことのほかにない。
このあまりに小さな手のひらで、わたしはすこしでも、その人の、その土地に暮らす人々の想いを、救えて、掬えているだろうか。問うこと、そしてすくえなかったものを悔やむことをわすれないでいたい。
ぜんぜん1冊じゃないなこれ。
今週のお題「人生に影響を与えた1冊」