新たな鼓動の律動を知るために
秋の足音が聞こえる。
知らぬ間に夏が立ち去ってゆく。
中高生のころ、夏はしんどくくるしい季節だった。
だからこそ、得られるものも大きく、多少なりとも得られるその「手応え」を頼りにしていた。
大学生や社会人と呼ばれるものになると、自分で自分に課題設定をしなければならなくて、与えられない、ということは、案外わたしを蝕むようだ。
どうしてもひとりで過ごす時間が長いので、ついつい立ち止まってしまう。
するべきこと、がそれを妨げていてくれたのがいまならわかる、のに。
おはよう、って言えないから、どれだけ眠ればいいのかわからない。
おいしいね、って言えないから、どれだけ食べればいいのかわからない。
そんな当たり前のことの前で立ちすくむ自分がとても恥ずかしい。
忙しくしていれば、概ねだいじょうぶ。からだの記憶に従えばいい。
でも、そうじゃないときは?
読んだり聴いたり泳いだり、おもいつくかぎりの自分を引き止める行為は行ってみたりしているのだけど、あんまりうまくいっていないかんじだ。
話し相手がほしい。この土地に、ともだち、はいないからなあ。
先月末に友人の結婚式に参加したのもあって、結婚願望がとても高まっている。
きのう酔っぱらった恋人に「内縁の妻を名乗ればいい!それだけの覚悟がないんだろう!」みたいなことを言われて、お酒の上での言葉を正面から受け止める必要もないのだけれど、覚悟が足りない、それはまったくもってその通りなのだ。
彼が学生だろうと、双方の両親の同意が得られなかろうと、わたしと彼の人生なのだから、ふたりの意志がおなじであるならば、どのタイミングで籍をいれようとかまわないわけだ。実際、彼はそういってくれているわけだ。
でも、いまのわたしにはそれができない。
なんでだろう。ちゃんとすき、なのになあ。
母親から、結婚は家同士でするものよ、と言われて育って、それが呪縛のように染み付いているのは間違いない、かな。
わたしが岡山に戻るタイミングが勝負所だとおもってはいるのだけど。
いまいる自治体が2年後に市制施行100年を迎えるので、ステップアップのためにもそこを体験したい気持ちはとてもある。
だから、会えない期間を、いかにわたしが安定して過ごすか、が課題なのだ。
どんな醜態を見せても去らないでいてくれているので、それはほんとうに感謝しなくちゃ。
いままでのひとたちにはいつもどこか、遠慮があって、というか勝手に「相手が思っているであろうわたし」像を形成し背伸びや無理をしてほころびが生じるというパターンがおおかったのだけど、いまの恋人についていうならば、申し訳ないくらいに素で接している。
ていねいに、生きよう。ていねいに、働こう。
あせらない。むりはしない。でも、きちんと。
言い聞かせないとできないというのはなんとも情けないお話だけれど、なんどでも、思い出してみせるよ。生き直してみせるよ。