息を吸って 生命を食べて
頭の中で、なぜかAKGの「新世紀のラブソング」が鳴り止まなかったので、イヤホンを装着して、今冬すこし奮発して買ったリーガルのブーツを履いてぐんぐん歩く。
約1時間、往復4キロ。
オレンジ色のガーベラを連れて帰る。先週買ったスイートピーは見た目の通り、渡してくれた店員の女性のように、繊細であった。
いつもの花屋さんは元気なおじさん。花も丈夫だ。
高校3年の入院時に記録した最高体重に肉薄しつつあるので、意識的に運動しようと小さく決意する。
食べる量は大して変わっていない(と思う)ので、たぶん純粋な運動不足。車に乗るようになるとだめだな。
遺伝子的にも気を抜くとすぐ太ってしまう。いやだなあ。
前回の関連。
会社の人と「本を読むということ」について話をしていて、職業柄、「活字中毒」を標榜するひとはおおい。
しかしわたしの場合、生きるということにはつねに読むという行為が付随しているというか包含されているので、わざわざ「わたしは本を読みます」アピールをしますというのは「わたしは酸素を二酸化炭素に変換します」というようなことなので、あまり言わない。
昨年までは平均して年に100冊は読んでいたので、ブクログ(http://booklog.jp/users/coppelia)を遡って昨年は50冊しか読めていないことを恥ずかしく思っていたら、その先輩が「普通、月1冊と言われているもんだよ」とおっしゃっていたのですごく驚いた。
よほどの才能を持たないかぎり、読んできた以上のものは書けないというのは真理であるとおもう。
それは表現力や構成力といった観点ももちろんあるが、基本的な「語彙」という点でにおいて「読むということ」によって補われる部分は多い。
芸術はおそらくすべからくそうなのだ。聴いてきた以上のものは奏でられないし、観てきた以上のものは演じられない。
あるべき名詞が、助詞が、動詞が、あるべき場所にある文章はうつくしい。
その場所はひとつではないが、その場所への接近を試み続けることがわたしの誠実さであるとおもっている、勝手に。
前回の関連その2(どうでもいいこと)。
車を買うことにしてから、いろんな車の表情が気になるようになった。
車のフロントやリアは顔に例えられることが往々にしてあるが、今度わたしが乗ることになる車はインターネット上で「情けないパグ」と書かれていてなるほどその通りとわらってしまう。
ムーミン谷の仲間たちがコマーシャルしているとおり、なるほど立派なジト目なのだ。
ちなみにこの子のOEM車はかわいらしい子犬のようにわたしには見える。
いま乗っているワゴンRもとてもイケメンだとおもっている。
ヘッドライトのかたちや角度が与える印象はその車を買う・乗るということにおいておそらく重要で、スズキの車がすきなのはこの印象が好みであるということに因る部分が大きい。
というか見た目くらいしか判断する材料にできないので、見た目くらい好みの車がいいです。それだけ。
また1週間がんばろう。