読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

空白

そこに描き出すしかないのだもの。

皮肉だけど憎んで さよならありがと

大学を卒業、しました。
ここには当然、中学高校を巣立ったときのわたしの軌跡(と書くとなんて大げさななのだろう)が残っているのだけども、そこに比してあまりの温度の低さにびっくりする。
逆説的に空隙あるいは空虚というかたちでしかこの4年間は主張をしてこない。

1年。
失恋の傷を引きずったまま、過去最高体重を記録したまま新しい土を踏む。
あんなに愛した吹奏楽を、バスクラリネットをうっかりと手放してしまって、そのかわりに構えた楽器は、わたしのことを愛してはくれなかった。それはわたしが真摯に向き合わなかったせいだと今ならわかる。
すこし話して気が合った人と手をつなぎデートをして、結局それから3年ちかく。
たくさん泣いたし怒ったし、でも彼がいなければ立っていられない日が何度もあった。

2年。
サークルの人間関係で計り知れなく病んで、夏休みには国外逃亡を図る。
そこで目にしたのは憧れや理想としてではなく、実践と現実としての教育の姿で、それは当然のことなのだけどわたしはせめて、そこに縋りたかった。
精神的にも身体的にもぼろぼろになりながら、12月の定期演奏会を乗り切る。授業のあと教授の部屋で嗚咽をあげて泣くなんて、尋常じゃない。
シューベルトの8番を平常心で聴くことは二度とできないんだろう。
年明けは実家でしっかり休養したものの、自己免疫が不全を起こして2・3月は療養にあてる。

3年。
もうこれ以上ここにはいられないという身体の声に甘えてサークルをやめる。
おつきあいにも区切りをつけたつもりが、うまくつけれていなかった。
ここですべての悪い流れを一旦、切り捨てたかった。
精神も身体も、こんなに脆い生き物では、わたしはなかったはずだ。
悪いものをすべて、断ち切りたかった。
でもこれは逃げただけなのだ、投げ捨てただけなのだという自責の念は、やはりわたしを時折不健全に、不安にさせて、ぞくぞくと苛む。それはいまもすこし残ってしまっているけれど、だいぶ自分の中で折り合いをつけることができるようになったとおもう、ようやく。
夏には東京に旅行に行ったり、スーパーのアルバイトを増やしたり、自動車の運転免許をとったりする。
本来そのために入った大学なのだからと、この1年はようやく、やりたかったことをできた気がする。というかこの1年だけはほんとうにきちんと哲学と、倫理学と、学問と向き合えた。

4年。
3年過ごした西条を出て、岡山の実家に戻り、就活。
今度こそ、すべて西条にぽうい、ってしてしまった。
あっさりと(というわけではほんとうはないのだけれど傍目に見れば)、しゅうしょくかつどう、は終わる。忘れたふりをしてごまかしていたら夢の方から寄ってきてくれたのだ。なんという僥倖だろう。
鮮やかな言葉が温度を持つと、それが伴う湿度と自己陶酔に耐えることができなくなってしまった。そんなときでも救ってくれる人が現れて、めぐまれている、とおもう。
夏休みは越後トリエンナーレでボランティア。芸術はいつだって軽々と様々なものを飛び越えてみせるものだからずるい。
その後は卒論とアルバイトをひたすら並行して行なって、そんな中でも中学校の同窓会や母校の吹奏楽部定演に奏者として乗ったり、3月はふらふら旅行に出かけたり、欲張りに過ごして、ああ、わたしは、わたしだった、のだなって。

マルチというと聞こえはいいのだけれど、要するに欲張りなのだ。
なにかひとつが軸になってしまうのは、それがぽっきりと折れてしまったときのことを考えるとこわくて仕方がない。
周囲の理解や協力がなくしては、そういうふうに生きていくことってできないのだけど、中高6年はわりと平然とそれが罷り通る環境にいたので、甘んじていた。
なにひとつやり遂げたと胸を張れない時間を過ごして、まったく西条という土地も愛せなくて、それでもそこでの出会いが時間が経験が、今後のわたしの血肉となる。
卒業の日、笑える程度にはきちんとこの4年をわたしは生きて、いた。
苦い後悔がこころを満たすけれど、この苦さは、教訓としてわたしが飲み干さなければならないものなのだ。忘れてはならないものなのだ。

中学からの付き合いの人たちといると、ついつい楽で、同じ速度で考えて、同じ歩幅で歩いてしまう。でもそれはごくごく限られたコミュニティにすぎない。
世界はもっともっと、ひろい。それが知れただけでも、この4年間を外で、ここで、過ごせてよかった。

だけどやっぱりこの楽に呼吸できる繋がりは手放せないなあ。
久しぶりに実家ぐらしの理不尽にどっぷりと浸かっています。
週に1度半日くらいの逢瀬くらいおおめに見てほしい。