空白

そこに描き出すしかないのだもの。

僕らが隣り合うこの世界は今も

吐いてばかりいる。
精神的にも、身体的にも。

あまり丈夫な精神にも身体にも生まれついてなどいないのに、11月ははじまる前からゼミとバイトで30連勤というのがわかっていて、ああ、しんどいな、とはおもっていたのだけど、そこに祖母の危篤だなんていうのも上乗せされてしまって、最初の一週間からさっそくグロッキーである。
びっくりするくらいに本を読めていなくて、掌からするすると砂がこぼれおちるように、じぶんの中から言葉が抜け落ちていっていて、ああ、アイデンティティクライシス。

喫煙を始めてはじめておそろしいほどに叱られたので断煙した。(そもそもこれに関してはそんなに依存しているわけではなくて、親にもばれていないくらいであるし、冬場に、火のひかりがあまりにあたたかくきれいだから、時折恋しくなってしまうだけだったので、禁煙もそして断煙も、一切困難ではない、吐き気を堪えることに比べたら、ずっとずっと。)
「気管支弱くて免疫おかしくてタバコ吸うとかそこまでして死にたいの?」と送られてきたメッセージに、戦慄した。
121111112,二進法の薄っぺらな温度を持たない記号に恐怖を覚える。このひとに見放されたくない、と。
いつだってわたしには覚悟が足りない。

死にたくなんてないのだ。
積極的に死ぬ必要なんて感じていない。
生きるということ自体が、死に向かって歩いて行くことなのだから。
ゆるやかに死ぬか、加速度的に死ぬかの違いだろう。
痛いのもしんどいのも苦しいのもきらいだ。
死ぬのはきっと痛くてしんどくて苦しい(方法ばかりな気がする、積極的に死ぬことに関しては、特に)。
でも生きていることが痛くてしんどくて苦しいことだってあって、そういう記憶がわたしはもしかすると人より欠片ほど多く(あるいは人はそういうのを乗り越えられたり忘れられたりするのかもしれないけれど、わたしは人よりそういうことが非常に不得手であり)、波のように寄せては返す記憶に攫われそうになるたびじぶんに非常に甘くなってしまうし、人のやさしさにも甘えてしまう。
じぶんを傷つけるという方法でしか人に甘えられないなんて、なんて不細工なんだろう。うつくしくないんだろう。
うつくしく生きて死にたい、のに。

同じ人に「僕らはきちんと正面から受け止める心の力が弱いから」って言われて、ああ、ほんとうにそのとおりだとおもう。
本来ならたくわえてこられるはずのそれを、どこかで使いすぎたか、そもそも培うタイミングを逃してしまったのか。
弟はそれがすごくうまい。いつでも正面から正しい重みで向き合って、時に潰されそうになりながらも最終的にはきちんと自分の中で消化してみせる。
消化不良の様々が、わたしの中では静かに暴れている。