空白

そこに描き出すしかないのだもの。

好きな人や物が多すぎて見放されてしまいそうだ

新潟から帰ってからの2週間、脳内で椎名林檎の月に負け犬がずっとループしている。

あの6日間の呼吸のしやすさは、もはや感動的ですらあった。
いつどこにいても誰かから何かから逃げ出したくなってしまうわたしが、帰りたくないと泣く、だなんて。
雨に濡れ涙を流しぼろぼろのぐしゃぐしゃになりながら歩いた道を忘れはしないだろう。
嗚咽と吐き気を堪えながら眺めた車窓の景色が網膜に張り付いて離れない。
鮮烈な経験と出会いと時間が、何よりわたしに大きなものを与えてくれるのだと、久しぶりに思い出した。思い出せた。
6年間の残滓をここでもまた引きずってしまう。
わたしたちの間では、ふらりと新潟に行く事くらい突飛でもなんでもない。
1年でも2年でも海を越えてしまうひとたちが平気でいる世界だ。それも、ある日突然。

過剰な干渉はしない、奔放に生きたいのだといえば、身体にだけは気をつけて、そう返してくれる家族、友人に囲まれる僥倖を、都合のいいときだけ信じる神さまとやらに感謝する、その真の対象たるひとたちに言うのは恥ずかしいから、そんな理由で。
後悔しないように、できるだけ、ちゃんと伝えていかないとなあ。

満ち足りてしまっているのだ、満たされてしまっているのだ、むしろ足りないくらいなのだ、餓えているくらいなのだ。
音楽がしたい、本が読みたい、書道がしたい、編み物がしたい、美味しいものが食べたい、人に会いたい、人と話したい、そうしてそれらを、こうして言葉にしたい。
久々に、1日が24時間では足りないし、1ヶ月が30日では足りない日々を過ごしている。
気づけば朝夕の気温はずいぶんと過ごしやすいものになっている。
ああ、このエネルギーだ。これがわたしを突き動かしていたものだ。

きちんと、しよう、きちんと。
清廉さと高潔さを失ってしまっては、奔放さの美しさが奪われてしまうから。
わたしの一番愛するものがそれであるならば、それを守るために、しなければならないことを、しなければならないように、していく必要がある。

働くとはこういうことなのだろう、納得のいかないこともしばしばあるが、そんなの反面教師にすればいいだけでしょう。だいじょうぶ、まだまだやれる。
もう半年もすれば、憧れのフィールドに立てるのだから。そこに立つために十分過ぎる練習をさせてもらっている。

少年老い易く学成り難し。
その言葉を痛感せずにはいられない。
いちばんエネルギーを注がなければいけない部分から目を逸らし続けている。
まっさらなワード。
逃げるなと、声が聴こえる。
君ならできるはずだと。
愛する人たちからの。

わたしは、逃げているのだろうか。
逃げているのだろう、怯懦は憎むべきものだ。
わたしには、できるのだろうか。
ほんとうに?いいえ、それはわたし次第だ。
震える足で、立ち向かわなければ、いや、立ち向かいたい。