空白

そこに描き出すしかないのだもの。

悲しくはない 切なさもない

21歳と6ヶ月。
あと半年で22歳。
信じられないな。
いつまでこうして、呼吸を続けていられるんだろう。
前回の投稿から2週間。
何かが決定的に変わってしまった気もするし、何も変わっていないような気もする。
17歳のあの時止まってしまった時計のゼンマイが巻かれた、みたいだ。

自らへの執着の薄さを越えて、失いたくない、と思えるものがあるのはきっとしあわせなことだ。
たとえ、喪失の恐怖に叫びだしたくなるとしても。
やわらかな愛撫の記憶に、繋ぎ止められる。
無関心って、要するに嫌いってことでしょう。
そうなのかもしれない、嫌うことすら、疎かにしている。
投げ出してはならないとわかっているのに、投げ出していることが、いくつかある。

それとは別に(根本では繋がっているのかもしれないが)、時折、すべてを放擲する。
死にたくはない。ただ、生きるということへの、積極的なエネルギーが枯渇する。
あらゆる事象への理解を放棄し、鮮やかな色彩をまとった世界の中で不穏に主張する黒い森へと彷徨いこんでしまう。
森は、日常と非日常のちょうど境界にある。

森の、半分しか知らなかったはずの15歳のわたしが書いている。
死とは、わたしたちにとって最も身近な非日常なのだと。
そして、足元でぱっくりと口を開いて、新たな訪問者を待ちわびる非日常に、足をとられぬよう、わたしたちは、目をぎゅっと瞑り、耳を塞ぎ、互いの呼吸ひとつに気を遣いながら、秩序という脆弱な殻の中で暮らしているのだと。
しかし17歳のある時期を越えて、「あちら側」を、薄目を開けて、指の隙間から、覗くようになってしまった。

意識的あるいは無意識的な散策の最中、身体の至る所に荊棘が当たる。
ぐさりと刺さってしまうこともあった。
血を流したまま帰ることもあった。
彼や彼女の、左腕の赤に、憧れていたのだろうか。
わたしもあの傷を刻んでいれば、抱きとめて、救ってもらえたのだろうか。
わからない。
でもそれをしなかったわたしはきっと、間違っていない。
飲み込んだ「助けて」が、「怖い」が、身体の内側や、精神の表面を切り裂いていたとしても、それをしなかったわたしは、きっと正しかったのだ。
そう信じてもいいでしょう?
誰にともなく、赦しを請う。
これから先も、救われはしないのだろう。
ただ、赦されたい。誰にかすら、わからず。

今は、かすり傷程度で「こちら側」に帰って来られるようになった。
一周して戻ってくる頃には、傷はあらかた癒えている。
ただいま、と屈託なく笑える。
迷い込む頻度自体がかなり減り、森の奥深くまで入ってしまうことも随分少なくなった。
大きな掌でされた目隠しは、見たくないもの、見てはならないものをきちんと覆い隠してくれる。
わたしの手は、それをするにはどうやらすこし小さすぎる、ので。

いつか、明るい木漏れ日の中を、手を繋いで歩ければいい。
いまは、そのための、「必要な過程」なのだと思おう。
少しずつ。