空白

そこに描き出すしかないのだもの。

一人減った未来を 一人多かった過去を

BUMP、ライブチケット瞬殺だったなあ。
アルバム今回も誕生日近くのはず!たのしみ。

ぶじ仮免とれました。あしたはじめて路上に出る。
修検3回受けたことはおかあさんはお墓に入るまで知らないでいいよ!
実家ではおかあさんとあそんでたのしかったです。
パーマもあてた。10日経ってなじんでごきげん。

このまえ文化の日になかよしの先輩とあそんだときに同情について話して考えたこと。

同情とか共感ってとても嘘っぽい。だって感情の定義はみんなちがう。
突き合わせて妥協しあってだから世界は成り立つんだけど、自分の感情が誰にたいしても妥当するだなんて思い上がり甚だしい。
わたしは「わたし」の生しか生きられない。
たぶん、同情を表現する代表的なことばって「可哀想」なんだけれど、それって言い換えたら憐憫で、どこかに「可哀想でない自分」への優越があることばだ。
だから言われた方はみじめな気持ちになる。
結局他人のことなんて「わかったつもり」にしかなれない。
その限界、境界に自覚的に生きることの困難。
「同情するなら金をくれ」ということばは、だからとても実際的だ。
それでもわたしはすきなひととすきなものを分かち合いたいから、それを共有したい。
そのためにはまず価値観や定義を共有することからはじめなきゃいけない。
そしてそれを一緒にすきになってくれたらうれしいし、すきになってくれなかったら残念だけど仕方ない。
そのための言葉は惜しみたくないな。
まあわたしエネルギー費やすのすきな相手に限定してるからそれができるのかも。
伝わらないだろうなぁとか、伝えたいと思わない相手にはすごく冷たい。
すぐ諦めてしまう。結局だれかひとりに向けてしか紡げない。
それでも共有は共感に先立つというか、共感よりは共有のほうが可能性はあるとおもう。


あと最近もっぱらレース編みが趣味なんだけれど、それをしながら浮かんでは消える思考の断片。

元々ものすごく自分について考えるのが苦手だ。
理由がなきゃ存在しちゃいけないなんて、なんだそれ、こわい。
存在する理由があるってことが、そんなに大切なことなんだろうか。
わたしは、わたしとして、いまここにいる。
それがすべてで、それ以上はないのに、どうしていけないんだろう。
物語を持たない、ありふれた自分がコンプレックスだからかもしれない。
凡庸なトラウマ、平凡な価値観、ステレオタイプの言葉。ああ!
怒られるのが嫌いだからずっとずっといい子なのだ。
それなのに「らしさ」を語れと言われても苦しい。
わたしがわたしらしくあることが周囲から最も浮わついていた小学校時代は孤独でしかなかった。
そのことに気づけなかった点でも、果てしなく孤独だった。
それから先はわたしのわたしらしさは周囲に同化していく。
同じような人たちがたくさんいる場所は心地よかった。
いつも抱えていた居心地の悪さ、息苦しさはどこかに消えた。
それでもそれだから却って、その中にあって尚異彩を放つ人に惹かれた。
凡庸なわたしの、非凡な彼らへの嫉妬と憧憬。
それがまた、大学に入ると変化する。
人が多すぎて、非凡な人を嗅ぎわけるのが困難になったのだ。
仕方なくわたしは手本を失い、ふわりふわりと生きる。
書道でもそうだった。手本がなければわたしはなにもできない。
オリジナリティ、クリエイティビティの圧倒的な欠如。
文章を書く、ということには多少の自信がある。
でも、わたしはわたしの文体を持たない。
わたしの文体は以前読んだものに大きく引きずられる。
村上春樹を読んだ後には彼の文体、江國香織を読んだ後には彼女の文体、という風に。
最近は「良いESの書き方」を見ないように必死だ。
あんな反吐がでそうな文章!
それすらいい子のわたしは真似てしまう。
優等生の答えを用意することならいくらでもできる。
しかしそれではイレギュラーな事態に対応できない。
ほんとうのわたしの言葉で語るなら、面接なんて何も用意しない方がいいんじゃないだろうか。
突発的な出来事に弱いだなんて、知りすぎなくらい知っているよ。
すきなことを探しなさいと言われて、振り返ってみれば、きらい以外はだいたいすき。
そういう人間になれたことは、相当しあわせなのだと気づく。
大丈夫。わたしはわたし。
それ以上でもそれ以下でもない。

でもこれって、ベロニカ書いたときとほとんど変わってない。
わたしの本質はたぶん中高の6年で確定されている。
正直ESぜんぶベロニカ送りつけたい。
わたしはこういう人間ですよ、のすべてが詰まっている。
でもあのときはせんせいに言葉を引き出してもらった。
非凡なのはわたしではなく、彼だった。
今度はわたしの力でわたしの言葉で。
自己肯定とか自己承認とかそういうのには困ってないというか、ほんとに存在への肯定とか承認とかを与えてくれるのは外部の人で、存在の理由は自分の外側にしかないとおもってる。
だから認められたい、誉められたいっていう欲求はすごくつよい。
とてもきちんとあいしてもらったしあいしてもらっているけれど、親は誉めたり認めたりをひどく苦手とする人たちだし、学校ではわたしは大概のことはできて当たり前だった(だから小学校なんかでは持て余されていた)。
その部分については、わたしはいまでもどうしようもなく幼いままなんだろう。

言葉が、溢れている。耳の奥、うずたかく積もってゆく。
わたしが音楽がすきなのはわたしが音楽に対して鈍感だからだ。
わたしは音楽は音楽にしか聴こえないしドレミもわからないし風景も見えないし匂いも嗅げないから、傷つく恐れがない。
文学に対しては親和性が高すぎてときどきどうしようもなくなって途方にくれる。
なくても生きていける順は美術、音楽、文学で、すきな順はたぶんその反対。
文学はすきなんかじゃない。
学問の対象にすることもできないほどにわたしの中の核にちかいような、もはや憎いようなそんな存在。
切り離そうにも切り離せない。

言葉に縛られてしか、生きてゆけない。