空白

そこに描き出すしかないのだもの。

どうせ一度なら心が向かうまま花泥棒

月に1回は書き残しておきたいというきもちは持っているのにどうなってるんだ。5月と6月がどこかに消えてしまった。そんなに忙しくしている訳でもないのに。

 

6月中旬にこの世で一番すきな後輩に会ってきた。

ちょう愛しくて、全然はなす時間たりなかったな。もっともっと聞いてあげたい。

あの子の人生にわたしがいたことを誇りにおもうし、わたしの人生にあの子がいることがうれしくて仕方がない。

 

5月の企画は結局、自分では全然納得なんかしていなかったのに、それなりに評価してくれる人もいて、もう何がどうなのかよくわかんない。

6月の後半は、まだできる、という余力を見透かされて指摘されて落ち込む。

わたしは何がしたいんだ、どうなりたいんだ。

「3年目ってひととおりできるようになって、でも次のステップに踏み出すのがすごくおっくうなんだよね」と言ってくれた他社の先輩はすごい。そのとおりすぎて。

わたしはどうも、そんなつもりはまったくないのに、無意識に人を見下しているようで、それって最低だとおもうんだけど、無意識だから困る。

あと、責任のとれない言動をとるのいい加減やめようよ。

あ〜書いてたらまた落ち込んできた。

 

あんまり落ち込んでるから、この金・土、約1ヶ月ぶりの予定のない連休、すべてをほっぽり出して岡山に帰ってきた。

髪の毛10センチくらい切って、それでゆるされたり変われたりするものでもないけど、いまのわたしにはそれが必要だった。

めっちゃかわいい服も買った。服はかわいい。

おかあさんのおいしいごはんを食べてると、悩みとか抱えている課題とかがどうでもよくなる。おいしいは幸せだ!

おいしいお酒をおいしいとおもいながら飲むためには、親しい人の存在って不可欠なんだろうなあ。

そのおかあさんはこの秋、15年勤めた会社をやめる。

弟はいろいろあったけどようやく落ち着いた。

来週は恋人にも会う。交際を始めてから3度目のお誕生日。早い。

 

「やりたいことをしたらいいんだよ」って言われると困ってしまうのなんとかしたい。選択肢を提示されないと選べないの、だめなんだってわかってるのに、なんでもたのしいし、なんでもわりとどうでもいいや〜っておもってる。よくない。

じぶんの興味のベクトルときちんと向き合うこと。

成長するためにはこの時間も必要なんだ。

成長したいかしたくないかと言えば、したい。

今のままじゃだめだ。今はよくても10年先、20年先、つらい。

指摘してもらえるというのは、変化できるという期待をかけてもらってるということ。

たぶんちゃんと理解してる。追いつけないじぶんがくやしいだけ、もどかしいだけ。

いまはそういう時季、そういうふうにすら、先週は思えなかったから、だめな自分のだめさに落ち込むばかりだったから、やっぱり帰ってよかったな。

頑張って、失敗して、もう一度頑張って、それでもだめだったら、もう一度考えればいい。教えてもらえばいい。

考えたり落ち込んだりする余裕ないくらい、忙しくしよう。

夏が、はじまるのだし。

 

募る愛情は君をすり抜けて僕をもうつまらない過去にする

ひさびさびっくりな具合のわるさです。

 

年末アナ雪を観たときもおもったけど、録画してたラプンツェルでも、さすがディズニーはディズニーだなっておもう。ディズニーランド行きたい。

 

音楽はどんなときでも救ってくれるからずるい。

楽器が吹きたい(当然、バスクラリネットのこと)への思いがあふれてあふれてしかたないんだよ、この真っ暗でネガティブな感情はすべてあのすとんとした筒体の中に流れ込んでしまえばいい、うつくしいものに変換されて、朝顔型のベルの中から吐き出されればいい。

5月のイベントは回避できたけれど本紙にいく企画からは逃れられない。がんばれわたし。観ていてくれる、ひとはいるんだ。

 

中高大くらいのときはあっちとこっちを行き来してて、まあそれなりに自分の感情のコントロールもうまくなったつもりでいたんだけど、成人して社会人になって、日々に忙殺されているうちはいいのだけどうっかりあちら側を覗き込んでその上手招きされてしまうと困ってしまうな。

違う会社の後輩の女の子はとてもわたしに似ていて、かわいいし大事にしてあげたいはずなのに、弱いわたしが顔を出して捨てたはずのものや癒してきたはずのものを思い出してしまう。

生まれたからには生きるしかないんですよ、

失うほどの損なうほどのエネルギーはわたしにはもったいないしそれだけの価値はないし。消極的なポジティブさ。

疲れてぽうんと飛び出してしまった一言を見逃してもらえずへこむ。圧倒的にわるいのはわたしだ。

どんなにがんばっているつもりでも、評価の対象となるのはその一言。

だれかほめてください認めてください。ここにいていいのだって。

 

それでも、どんなひとであったて状況であったって、自分で自分を傷つけることは正当化されるべきではないとおもう。そう信じている。

だって痛いのはくるしいのはつらいのは、だれも救いはしないでしょう。

わたしが嗚咽を漏らすことは、世界をわずかほども揺らすことはない。

衝撃的にアルコールに弱くなっていて、家族と恋人と親しい友人と、それ以外に全然心を許せなくて。

お買い物をして、おいしいものを食べて、心をゆるめなきゃ。

くるしいよ。

 

こわいこわい孤独ださみしい。

 

ここにいる抱き合いたいここにいる

福山に来てちょうど1年。

わたしは成長できている?分からない。

強く(つまりは鈍感に)なった気は、とてもするのだ。

あしたからは後輩もできる。

 

ちょっといやな出来事があって、きのうの夜から岡山に帰って恋人に存分に甘やかされてきた。

このまちのことを嫌いではまったくない、でも、失いたくないとおもうほど大切な人には出会えていない。

このまちは、わたしのまちではない、という、岡山に帰ったとき、福山に戻ったとき、去来する気持ち。

さみしさ、愛しさ、依存心はぐんぐんと育つ。厄介だ。

いつ、一緒に暮らせるようになるかなあ。

 

信頼、信用を裏切られるととてもかなしい。

怒りという感情が基本的に欠落しているので、それに通じるのであろう、ネガティブに針が振れる出来事があると、悲しみが先立つ。

わたしは信じて、いたのに。

「女」を使って働くことをしないのはわたしの矜持であるのに、それを踏みにじられたようで。

でもまあ2年、この業界で働いていると割り切るとか、諦めるとかはうまくなる。

それがいいのかどうかは、やっぱりよく分からない。

いま一緒に働いているひとは、すごく怒りの感情がつよくて、そのエネルギーにぶつかるたびにとても消耗してしまう。

理由としてはまっとうだとも思うし、その感情を抱くのは仕方ないのだと理解はできるが、大人なんだから我慢しなよ、と半ば白々しく、呆れてしまう。

他人への怒りで、わたしまで嫌な気持ちにさせられたり傷つけられたりする必要は、きっとない、よなあ。

あしたからの仕事のことを考えるとゆううつしか生まれない。

どんなときでも、どんな状況でも、やるべきことは、やらなければいけないんだよ、大人なんだから。「やりたくないから、やらない」は許されてはいけない。

 

「小さいおうち」を観ている。こういう安らかな邦画を映画館で観ようとは思わないけれど、いいものだ。

黒木華かわいい。

本を読んだり、文章を書いたりするエネルギーがなかなか出てこない。

実は週末に締め切りを控えていて、困ったな。5千字だ。

スタンダードが400字、長くて750字の日々を過ごしている、ので。

集中力が落ちていれば語彙も失われていて、かなしみ。

リハビリをかねて、散文を書き散らかす。

 

ミルク色に煙る街を裸足で歩いている

どきどきしながらワーグナーを聴いている。

なぜかうまくパソコンにCDが読み込めなくなってしまった。

音楽なんて本来的には瞬間瞬間の芸術であるのだからして、保存、および繰り返し聴こうなんて発想自体がおこがましいのだ。

コンサートに行きたいなあ。ライブでもいい。生きたものに触れたい。

 

先月の終わりから会社のわりと大きめのイベントに専従になっていてようやくおわった。

疲弊しきっていて、きょうは午後から起きて、食べて、飲んで、くずみたいな生活をした。

あと録画していたテレビドラマを数本見た。

落ち着きがないので、テレビを見るという行為が向いていないのだけど、録画はそれなりにじぶんの ペースで見られるのですばらしい。冬のボーナスは正しい投資をした。

年始のオリエント急行殺人事件は衣装がうつくしかった。

今クールのドラマでは、沢村一樹真木よう子とすきな俳優が出演しているもの、あといま暮らしている自治体が舞台になっているものを残している。

そんな節分。

ひとりでなければ乗り越えられることもあるのかもしれない、あいにくいまのわたしは超絶ひとりだ。

 

疲労、というものはこんなにも毟りとっていくものだったかなあ、なんて思いながら、まあこういうものだった気もする。

2015年になったからといって特段わたしがすごい美人になったわけでも性格がよくなったわけでも、当然能力が伸びたわけでもないし。

どちらかというと手を抜いた日々だったってこと。すこし本気をだしたらこうなっちゃう程度だってこと。

 

空いた時間を見つけて、「ノルウェイの森」を読み返していた。

いつ読んでも「死は生の対極にあるのではなく、我々の生のうちにひそんでいるのだ」っていうのは大きく首肯せざるを得ないんだけど、今回とても響いたのは永沢先輩の「自分に同情するのは下劣な人間のすることだ」というお言葉。

わたしを大切にできるのは究極的にわたしだけであるし、そんな高尚なにんげんでもないけれど、わたしはわたしを憐れみたくはないのだった。

まあそれなりに満たされてはいるはずだ。家族がいて恋人がいて、仕事があって。

 

そんなこと言いながらもとめてしまうのがわたしの悪癖であり、わたしがわたしであるゆえんである。

わかりますか、わからないでしょう。

恋人に遊園地にいくことを強要したりしてしまうのだ、一緒にいてくれる、すきでいてくれる、ただそれだけでいいなんて思えないの。

自分に余裕がなくなるとそれがいっそう顕著になる。

そして自己嫌悪に走り、自分を傷つけ…たいへん情けないね。

 

ていねいに生きる。

もう何年も、それを目標として掲げている。

叶えられなければ、変える必要はないのだとおもっている。

目標とは、叶えるために掲げるものだから、叶うまで掲げ続けることは、なにもおかしくなどない。

 

 ー今週のお題「今年の抱負」

それはすべて永遠のため未来の向こうへ行くため

気付けば24歳になっていました。はにゃあ。

ブログ形式での記述を始めておそらく10年です。信じられん!

10年ひと昔とはよく言ったもので、mac book airを愛機にしているなんて思ってもいなかったよ。当たり前か。

相も変わらず書くことは大好きです。それはうれしいこと。手放さずにいられたこと。

何度も書いているように、インプット量の減少に伴うアウトプットのクオリティの低下はすごい。ほかの誰にも分からなくても、わたしにはごまかせない。あと当然、書く量も減っている。お仕事は別にして。

10年前のわたしはとても欲張りで、バスクラリネットも書道も捨てることができなくて、1日が24時間しかないのがもどかしくて仕方なかったなあ。

今はだいたい1日平均12時間くらい働いているけれど、早く過ぎないかな、っておもっているのだからゲンキンなものです。

この1年は、社会人2年生ということで、お尻に殻をくっつけたまま独り立ちさせられて、それはすこしかなしかった。

でもほんとの意味でのお別れなんて、世の中そんなにないのですよ。

その気になれば取り戻せるものばかり。バスクラもお習字も、たぶんわたしは心のどこかで諦めていない。

すこし立ち止まったり遊んだりする余裕も出てきた。それくらいじゃないと、やってられない。欲張りは、本質的なところでは変化、していない。

おととい仕事納めで、開放感に浸っていたら変な話だけれど、うっかり普段抑圧していた様々、無気力、絶望、怠惰、そういったものまで解放してしまったみたいで、久しぶりに「今ならいける!」ってレベルでネガティブフェーズに落下して、じぶんのことながらうまくついていけなくてびっくりした。

昨日の午前中まで引きずって、ようやく社会復帰。今年も生徒会の忘年会に参加できた。

彼氏の家に泊まって、めずらしくラボの見学をさせてもらって、弟に迎えにきてもらって実家。犬がかわいいので世界は今日も平和。

弟と2人で年越しだよ〜。

元日には福山に戻り、2日はおしごと。3、4日はお休みをもらって、吹奏楽のOB会のためにまた戻ってきます。

帰る場所があることのありがたみはやっぱり社会人になってからのほうが感じるし、呼んでもらえるというのはうれしい。

わたしは軸足をどこに置くか、をはやい段階で決めてしまっているから、葛藤、が生じないのだとおもう。居心地がいいところにしか行かないし、都合のいいことしか愛せない。

極端な話、実家に帰ってもいかに父親と顔を合わさないかはかなり徹底している。大学時代から変わらない。

2013年の1月に祖母が亡くなって、2014年の4月に祖父がいなくなってしまった。

一番大きなお別れは、それだ。鳥取のお家が、なくなってしまった。

生死に関わることについてはできるだけ心を閉じるようにしている。

それがいいことだとは思わない。いつか、真正面から向き合えるようになればいい。

母親がいなくなるのは、まだまだ、耐えられないなあ。

来年の目標はとりあえず痩せることです。今年の頭もそんなことを考えていたような気がする。あと年間80冊は本を読みたい。

勢いに身を任せる。人には自恃があればよい。

よいお年を!

 

今週のお題「2014年のお別れ」〈2014年をふりかえる 3〉

 

 

いつまでも人は迷路のように 心の中に闇をもって

ひさしぶりのお休みだというのにおなかの調子がわるい。

このあと休日出勤して遊園地にイルミネーションの撮影(ひとりで!)行かないといけないのに・・・。

 

衆院が解散してしまった〜。

能楽」をテーマに5回連載を持たせてもらって、それなりにかたちになってようやく安堵した、とおもったらこれだ!

働いても働いてもお仕事が降ってくるというか、選挙に人員を割かなければいけないぶんルーティンの紙面に空白を作らないようしないといけないというか。

と同時に、心穏やかに年末年始を迎えるためのストック原稿もつくらないといけないので、年内いっぱいは身動きとれない。

この前の三連休でだいすきな先輩と小旅行できてよかったな。

師走を駆け抜けろ〜。

お給料もお休みもないけれど、尊敬できる先輩(40歳)がそれを当たり前のように働いていてあんまりかっこいいので、23歳の若者が弱音を吐く気にはなれないのだった。

別に仕事の向き不向きとか考えないし、やりがいとかいうのもよく分からないけれど、働かないと生きてはいけないし、好きか嫌いかといえば、少なくともやめたいとは考えたことがないので、嫌いではないんだろう。

記事を読む前と読んだ後では、見る世界がほんの少しいいものになっていればいいなあなんてユートピアみたいなことを考えたりは時々するけれど。

大きすぎるものには興味(期待と置き換えてもいいかもしれない)を抱けないので、地方紙の記者になったのだけれど、この国には地方と首都圏の二項対立が厳然とある以上、わたしの愛する地域に暮らす人たちが生きやすくなるためにはトップダウンで変えていかなければならないのだ、大きなものも大切なのだとじぶんに言い聞かせてみたりする。最初はほんとになんのためにするのか、さっぱり理解できなくて動けなかった。

納得しないと動けないのはわたしのいけないところではあるけれど、変えられる気はしない(し、変える気持ちもあんまりない)。

じぶんが咀嚼して昇華して、その先に、言葉は在るんだ。

でもまあ本が読めなくなっているし、歌詞のある曲が聴けなくなっているので、それなりに疲れてはいるんだろうなあとおもう。精神的なほう。

チャイコフスキーうつくしすぎる。冬の寒さと強靭さ。

すきな季節だ。がんばろう。

 

恋人とは相変わらず過不足のない日々をすごしている。

彼も彼で来月初旬におおきな試験があるので、お互いこの1ヶ月ほどは勝負の期間。

今月あたまに友人の結婚式に参加してきたけれど、初めて行ったときとちがって今回はそんなに結婚式したい〜!とはならなかった。とりあえずごはんは大事だな、とおもった。

これが終わったら、USJかディズニーに行きたい、という、現実逃避。

 

あなたがいなければ 色が無い絵になるんだ

台風のおやすみの日。そろそろ落ち着いたかな。

出勤だったらゆううつ極まりないのだけど、月に1度の全社的にゆっくりできる日なので、雨の音を聴きながら、好きな音楽を流して好きな本を読むの、至福だ。

 

職場で基本的に2つ上の男の先輩と2人で働いているのだけど、先週はこっちに来て半年、一番うまくいかない1週間だった。めんどくさい。

わたしは調子乗りで口が悪いので、もう最低限しか話さないことにした。

何が彼のトリガーになるのかよくわからない。

そのくせ、わたしの矜持を踏みにじるような言葉を平気でぶつけてくる。

あなたは立派なのだろう、あなたは正しいのだろう。

だから何も言い返すことはしないけれど、価値観の押しつけは何より苦手だ。

正しさはひとつではないのだと、そんなことを言おうものなら、苦しさは広がるばかりだろうから、ひそやかに呼吸することにする。

夜回りは女の子の方がネタがとれる、なんて。

知らない男に車に押し込まれそうになって、ご家族に罵声を浴びせられて、そうして得られるものは読者の求める情報ではなく会社や個人の虚栄心を満たすものだ。わたしはじぶんを切り売りしてまで、この会社に尽くしたくはないよ。

ネタをとるには雑談だとか、宴席では一番下らしく振る舞えとか、よくわからない。

あなたは正しいのだろう。それはあなたにとっての正しさの上で。

あなたもそれぞれの席で、いろいろなこと言われてるよ。一番下がわたしになったから、耳に入らないだけ。よかったね。そしてわたしに偉ぶればいいんだもんね。よかったね。

わからないけれど、わからないから、聴いているふりをして、何もしないことができるくらいにはおとなになった。

「やる気はあるんだろうけど、編集外されるぞ」

ざんねん、わたしはやる気もなければ、編集への執着もないのだった。そういうひとつひとつの的外れが棘になった心がささくれてゆく。

2人しかいないので、マイナスの感情の行き場もない。はあ、ゆううつ。

連休ゆっくりできたので、明日からまた、がんばろう。わたしはわたしだ。

 

この8日で交際して2年だった。

土曜の夜から来てくれて、ほんとうはお付き合いを始めた場所が倉敷だから毎年行きたいな〜みたいな気持ちはありながら、お天気の都合などもあって、初めてのデートで食べたカレーとナンを2人でつくりました。

一緒にいると大事にされているのがわかる。しあわせ。

この前せんぱいと話していておもったのは、彼のわたしへの関心が維持されている、ということ。

会うたび、ちょっと太った?とか、ちょっとやせた?とか。肌荒れしてるよ、とかちゃんと寝てる?とか。

そういうのを自然に言ってくれる、そういうのをずっと気にかけてくれる、というのは、なんといえばいいんだろう、この人のことを手放したくないな、一緒にいたいな、という感情につながるのだ。

彼がいちばんきらきらしているのは研究のはなしをしているときなので、研究を続けてほしいな、とおもうし、それがしたいことならばそれを仕事にできたらいいなあともおもう。

その環境を支えてあげられるといい。